たかが人生、それだけ

日頃の鬱憤を書き散らかしてます

推しがブサイクだけど可愛い

突然であるが、私の推しはそんなにかっこよくはない。



むしろブサイクな瞬間が多い。(私調べ)



この前、Twitterで、

「ステージに出てくる〇〇さん見て一瞬で好きになった。こんなにタイプの人初めて」

みたいなこと言ってる人が居たが、その時の私の反応としては、


「え?嘘でしょ?見た目で??好きになったの???」


である。


本来オタクというものは「推しくんかっこいい!もう私は今日から推しくんのATMだよチュッチュッ」というイメージがある(偏見)が、なぜか私はそうはなれない。


いや、私にも「推し可愛いカウンター」はしっかりと存在していて、色々な場面で「アッ推しカワイイ」とカウンターの数字を増やし続けている。


これが世にも不思議な「推しがブサイクだけど可愛い」現象である。


推しを王子だと崇めるオタクがいる中で、なぜ「うわ、この瞬間の推しブッッサイクだな!」などと言えるオタクが存在するのだろうか。


私が考えた理由としては、「そのオタクは腐女子であるから」だ。


通常、腐女子というものはアニメや漫画、果てはナマモノまで、あることないことのないことを妄想し、火のないところに放火をして煙を立たせる生物である。

この生物の特徴は、作中の登場人物同士の恋を見守る(捏造する)点であり、決して自分を投影するということはしないのである。


腐女子は関係性に萌える、という話を聞いたことがあるだろうか。

もちろんキャラクターのビジュアルも大事である。

しかし、腐女子が注目するのはやはり関係性なのだ。

幼なじみ、ライバル、宿敵、先輩後輩……


世の中はたくさんの関係性で溢れている。

腐女子とは、関係性をオカズにして白米を食える人間なのだ。


そんな思考が標準装備の人間が、2次元に推しを作ろうが3次元に推しを作ろうが結局同じことなのである。


そこに自分はいない。あるのは推しと、それを取り巻く関係性だけ。

自分が推しに恋をするのではない、推しに恋をさせるのだ。


自分がそういうスタンスでオタクをしていると気付いてしまったのだ。


私は推しを「カワイイ!」と愛でるが、「カッコイイ!」とうっとりすることはほとんどない。(楽器を弾いてる時だけはかっこいいのだが)


道理で推しの顔を全肯定できないし、王子として崇めてるタイプのオタクのTwitterを見ると体調が悪くなる訳だ。


そのようなオタク達とは文字通り、脳ミソの腐り方が違うのだ。同じフィールドに立っていない。


腐女子オタクはこれからも周りのオタク達からの疎外感を味わいながら生きていくしかないのであろうか。


この記事が、テンションの違いで周りのオタクと馴染めず微妙に浮いていると感じる孤独なオタクの慰めになることを願う。